・諸星あたる
・あたるの母
・あたるの父
・クラマ姫
・安達が原鬼子(スキーの先生)
・メガネをはじめとするクラスメート3名
・錯乱坊
・ラム
・安達が原鬼子の祖母
・場所 スキー場
あたるは、友達と3人と泊りがけでスキーへ行く。スキーの先生が大変な美人で、みな鼻の下を伸ばしていると、錯乱坊が現れ、そしてその先生の名前が
「安達が原鬼子」と知り、あたるに、「安達が原の鬼女伝説」と同じ名前なので気をつけるようにと忠告する。
スキーのコースをまわっているときに、あたるが、鬼子先生に抱きつくと、UFOから監視していたラムが怒って、吹雪を巻き起こす。すると鬼子先生は、近く
に自分の家があるからと言って、みなを家へと招き入れる。
鬼子先生は、みなに酒を振舞い、「こちらの部屋には決してはいらないでください。」と言い残してその部屋へ入って行く。みなは、酒を飲んでいつしか眠って
しまう。あたるがふと目覚めて、その部屋を見ると、障子に大きな刃物を研いでいる姿が映っている。みなは大急ぎで逃げ出す。
うる星やつらのこの話は、安達が原の鬼女伝説をもとにしているのですが、安達が原の鬼女伝説について、記録に残っている一番古い資料は次の歌とされ ています。
おなじ兼盛、みちの国にて、閑院の三のみこの 御むこ(御子の誤り) にありける人、黒塚といふ所にすみけり、そのむすめどもにをこせたりける、
みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか
といひたりけり。
かくて、「そのむすめをえむ」といひければ、親、「まだいとわかくなむある。いまさるべからむ折にを」といひければ、京にいくとて、やまぶきにつけて、
はなざかりすぎもやすると蛙なく井手の山吹うしろめたしも
といひけり。
かくて、名取の御湯(みゆ)といふことを、恒忠(つねただ)の君の妻(め)よみたりけるといふなむ、この黒塚のあるじなりける。
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訳
閑院の第三の皇子のお子が、黒塚という所に住んでいた。その娘たちに、兼盛が歌を送った。
「安達が原の黒塚に鬼がいるというのは本当ですか」
これは、兼盛が、その娘たちと、安達が原の「鬼」とをかけて冗談を言ったのだが、兼盛は更に、「娘さんのうち一人を嫁に下さい。」と言う。
するとその親は、「まだ幼いので、大きくなったら是非どうぞ」とやんわりと断った。そこで兼盛は、
「花盛りが過ぎてしまうのではないだろうか、蛙が鳴く井手の山吹にもたとえられる娘さんを残して都へ行くのが気がかりです」
と言った。
さて、名取の御湯(みゆ)ということを、恒忠(つねただ)の君の妻が詠んでいるが、その恒忠の君の妻というのが、この黒塚のあるじであった。
この歌は、後に、「拾遺和歌集 巻第九 雑下」にも収められます。
みちのくに名取のこほりくろづかといふ所に重之がいもうとあまたありと聞きていひ遣はしける
陸奧の安達の原の黒づかに鬼こもれりといふはまことか
大和物語と、拾遺和歌集からすると、「黒塚」は、宮城県の名取になるようですが、本来、兼盛が詠んだのは、福島県の二本松市の安達が原であったよう
です。(この辺の事情は、タイムマシーンでもない限り究明することは不可能でしょう)
次は、福島県の二本松にある、観世寺の縁起です。
当山は聖徳太子真弓の神秘旧蹟にて、奥州「随一」の仏法霊場
天台宗の名刹と崇められた旧蹟の地である。岩手局(いわてのつぼね) [鬼婆]を
降伏せし「阿闍梨祐慶東光坊上人(あじゃりゆうけいとうこうぼうしょうにん)」が遷座す。如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)を
祀る。堂宇広からずと雖も仏徳宏大、祀りし如意輪観世音菩薩
は、奈良時代の名僧「行基菩薩」の御手なるものと云へり。神亀(じんき)三年
寅の年(奈良時代)紀州熊野権現の行者、東光坊上人、三度返(さんどがえ)り
に於いて、背に安座す行基菩薩御手なる、如意輪観
世音菩薩の尊像に向へ、一心専念、如意輪真言秘密の呪文を
唱へ玉へば、不思議なる哉や、尊像は虚空遥かに舞上り、大
光明を放ち、破魔の白真弓を御手に取り、金剛の矢を番え雨
の如くに射掛け玉う様、実(げ)にや天将悪魔を懲らすの大不思議
「鬼女と化し怒り狂う鬼婆」岩手局、身体もはや寸分も動かす事あ
たわずして、遂に命終りけり、如意輪観世音の射玉へし、破魔
の白真弓の調伏(ちょうぶく)に遭いて、東光坊上人厄難を免れ得たので、そ
の念を深く謝すると共に、弓の名称を取りて「白真弓観音」と、
斯く名付け玉へし霊験灼(あらた)かな郡智(ママ)の産、如意輪観世音菩薩な
り、然れば、この如意輪観音と云へるは、分布希少也にして、
最も重宝視せられている菩薩の一つなり。如意輪とは、意の如
く論ずる(常に法輪を転じいて有情を摂化し、富貴、財産、
知恵、勢力、威徳寺(ママ)、願うままに授け与うる)求む所皆、
意の如く成就して、感応必ず空しからず「意願満足」の所以、
斯の如し也。是故に、魔性・厄難と云へるも復、悉く此処に除障せしめ、一切
の災を断除、自ずと財宝に恵まれ、願力絶大であると、壱千二百年
有余の昔時より伝承せられ、功徳甚深なる其の霊験利生は、奥州随一の仏
法霊場也と斯く賞賛さるるに及び玉へし、由緒ある「白真弓如意輪観世音菩薩である。
注: 「郡智」は「那智」の誤りか。
お能の台本である謡曲の「黒塚」も、この観世寺の縁起と大筋としては同じですが、多少違いもあるようです。
熊野の行者阿闍梨祐慶東光坊が全国を行脚の道で行き暮れ、安達ケ原の一軒に宿を求めた。主の老婆は糸を紡いで見せた後、焚き火の薪を取りに裏山に
出かけた。
行者は、老婆が寝床の部屋は開けるなと言ったのを不審に思い、密かに覗くと、死骸の山が累々としていた。
「これこそ安達ケ原の鬼の住家であったか」と笈を背負って必死に逃げた。怒った老婆は鬼の正体を現して、追いかけて来たが、
行者の念仏により、すぐにもとの老婆へもどり、自分の浅ましさを恥じて、消える。
このように、両者は大筋としては同じです。と、すると、観世寺の縁起から謡曲が作られたと考えるのが普通なのですが、それとは逆に、お能の黒塚が有 名になったので、そこから、観世寺の縁起が作られた。とする説もあるようです。そこで少し、観世寺縁起と謡曲を比べてみたいと思います。
まず、両者では、結末が違っています。観世寺縁起では、観世音菩薩が弓矢で鬼婆を射殺しているのですが、謡曲では、裕慶たちの念仏により、鬼女はも
との老婆の姿もどり、「あさましや愧(は)づかしの我が姿や」と言って、暗闇に消えて行きます。
そして、案外気付かないのですが、両者では主人公が違っています。観世寺縁起では、主人公はもちろん寺の開祖の、「阿闍梨祐慶東光坊上人(あじゃりゆうけ
いとうこうぼうしょうにん)」です。
しかし、謡曲の方では、鬼婆の方が主人公に設定されているのです。謡曲の原文を見ると、祐慶は「ワキ(脇役)」、鬼婆は「シテ(主役)」となっているのです。
こうして、観世寺縁起と、謡曲とを比べてみると、謡曲の方が芸術性を追求していることがわかります。それは、結末もさることながら、主人公の設定の
違いにそれは大きく現れていると思います。
本来この手の話は、勧善懲悪の話であって、悪役が主人公に設定されることなど考えられません。ところが、謡曲では、芸術性(ものの哀れ)を追求しているた
めに、鬼婆が主人公になっているのだと思います。
これらの観点からすると、観世寺縁起の方が、謡曲よりも原型に近いように思えます。(ここで言っているのは、「謡曲と観世寺縁起ではどちらが古いか?」で
はなく、「どちらの話がより原型に近いか?」ということです。)
この話が、歌舞伎などにになると、老婆がなぜ鬼婆になったのかという物語が付け加えられることになります。
昔、京都の公卿の屋敷に「岩手」という名の乳母がいた。ある時、岩手の育てていた姫が重い病気にかかり、易者に見てもらうと「妊婦の生き肝を飲ませれば治
る」という。こうして岩手は生き肝を求めて旅に出た。しかし、妊婦の生き肝などそうは手にはいるはずもなく、いつしか岩手は安達が原まで来ていた。
ある夕暮れのこと、岩手の住んでいる岩屋に、「生駒之助」と「恋衣」という夫婦が宿を求めてやって来た。岩手が二人を泊めてやると、その夜更けに、恋衣が
産気づき、生駒之助は産婆を探しに出て行った。
この時を逃さず、岩手は包丁で、恋衣の腹を割き生き肝を取った。すると恋衣は「幼い時、生き別れた母を探しに旅に出たが、とうとう会えなかった」と語り息
絶えた。
そして岩手が恋衣が持っていたお守りを見ると、昔、自分が与えたものだった。岩手はあまりの驚きに気が狂い鬼婆となった。
この話は、次のような話がベースになっているのかもしれません。
昔、平貞盛が、丹波守だった頃、身体に瘡(かさ)が出来た。医者に見せると、「これはとても悪い瘡です。児肝(じかん)という薬で治すしかありませ
んが、簡単に手に入るものではありません。でも、その薬をはやくつけなければ、手遅れになってしまいます」と言う。
貞盛は息子を呼んで、「医者はわしのこの傷を、瘡だと見立てた。しかも、これを治す薬は、手に入らぬとぬかしおる。お前の妻は懐妊したな。それをおれにく
れ。」と言った。
息子の維衡(これひら)は、途方に暮れて、その医者に相談すると、医者がうまい方策を考えて、貞盛に言上する。「その肝は、自分の血筋の肝では役に立たな
いのです」
貞盛は嘆き悲しんで、他を捜す。すると炊事番の女が懐妊して六月になるという。そこでその女の腹を割いてみると、その子は女の子だったのでこれも薬になら
なかった。貞盛は更に他を捜して、やって児肝を手に入れて瘡を治すことが出来た・・・・・・。
以下省略
注: この話で、医者が瘡と見立てたのは、実は、貞盛が陸奥で戦をした時に、敵から受けた傷で、本当は瘡ではなかった。
この話は更に、日本の昔話などでは、「孫の生き胆」と呼ばれる話となり、「目の見えなくなった姑のために我が子を殺して肝を取り、それを姑の目に塗
るとその目が開き、開いた目から孫も出てくる。」というような話になります。
また、グリム童話の「忠臣ヨハネス」という話では、「石像になってしまった忠臣のヨハネスを蘇らせるために、子供たちを殺してその血を浴びせる。すると子
供たちも生き返る」というような話になっています。
また、ペンタメロネ グラノニア という話では、「お姫様は、小鳥たちが、『王子が怪我をしていて、それを治せるのは、お嫁さんの心臓の血だけだ』と話し
ているのを知り、自分の心臓に剣を突き刺して、王子に血を浴びせて、自分は死ぬ。しかし、白いハトが飛んで来て、王女を生き返らせる。」というような話と
なっています。
更に類話には、「孫の生き埋め」というような話があり、それは、今昔物語の次のような話です。
中国の河内(かだい)という所に郭巨(かくきょ)という人がいた。父は死んで母は健在だった。
郭巨は心をこめて母を養ってはいたが、貧乏なので食物を、母と自分と妻にそれぞれ三分の一ずつ当てていた。そのうちに妻が男の子を産んだ。三つに分けて
いた食物を四つに分けることになり、母の食物はいよいよ少なくなった。
郭巨は妻に、「老母を養うためにこの男の子を穴に埋めて亡き者にしようと思うのだ。そなた、惜しんだり悲しんだりしてくれるな」という。妻はこれを聞い
て涙をながしながら、「人がわが子を愛することは、仏も一子の慈悲というお言葉で説いておられます。といって、あなたが非常に深い孝心からこのようにしよ
うと考えたのですから私が妨げたら、天罰は免れないでしょう。ですからあなたの思うとおりにしてください」と言った。
そこで夫は、妻に子を抱かせ、自分は鋤を持って遠い深山に行き、子を埋めようと土を掘りはじめた。すると一斗ほどはいる大きさの黄金の釜が出てきた。蓋
をとって表面を見てみると、そこには、「黄金の釜一個、天が孝子郭巨に賜う」とある。
その後、この釜を少しずつ割って売り裕福な身となった。すると国王はこれを聞いて驚き、釜の蓋を取り寄せて見ると、まさにその文が書かれていた。
国王はこれを見ると感激し、ただちに郭巨を国の重臣に登用した。
注: 御伽草子 二十四孝『郭巨』 も同じ話
そしてこれらの話を遡ると、「子供を生贄にする」というような話になります。
例えばギリシア神話では次のような話があります。
トロイの戦争の際に、ギリシア軍は、女神アルテミスの怒りを買い、船が足止めされてしまう。預言者カルカースが占ったところ、大将のアガメムノーンの娘の
イーピゲネイアを生贄にしなければならぬという。
そこで、アガメムノーンは娘を生贄に供することにする。イーピゲネイアが祭壇に横たえられ、刀が振り下ろされた時、アルテミスの怒りは解け、娘と雌鹿がす
りかえられる。
インドにも、幸運の女神を引きとどめるために、自分の息子を殺しまた自分も死ぬ。すると妻もそのあとを追って死んでしまう。しかしその後、幸運の女 神は、全員を生き返らせる。というような話があります。また、旧約聖書にも次のような話があります。
2.神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上
で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
3.翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうし
て彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
6.アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
7.イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼
のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
8.アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
9.ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎ
の上に置いた。
10.アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
11.そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
13.アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わり
に、全焼のいけにえとしてささげた。
うる星やつらの場合、あたるは、見てはならぬという部屋を見たために、中で刃物を研いでいるのが分かり、あたるたちは逃げ出すのですが、(実はこれ
はスキーのエッジを研いでいたのですが・・・・)
この場合は、「中を覗いたから助かった」という話と見てよいでしょう。このように、開けてはならぬと言われた部屋を開けたためによいことが起こるという話
には、「助けとなってくれる馬を見つける」「助けになってくれる王子を見つける」「美しいお姫様の絵を見つけ、それを求めて旅に出ることになる」などの話
があります。
でも大抵は、開けるなと言われたものを開けると、ひどい目に合います。類話としては、ペローの「青髭」、グリムの「まっしろ白鳥」などが有名で、これらの
話は、実在の貴族、ジルド・レイの逸話がもとになっているというのは、これまた、澁澤龍彦「黒魔術の手帖」に詳しいのですが・・・・
それはともかく、この「開けてはならぬと言われたのに、開けるとひどい目に合う」という話は、もともとは、人の好奇心を戒めるための話であったようです。
例えばこんな笑い話があります。
王様がある貴婦人に、「女は、神様が最初にお造りになられた、イブの時から、いらぬ好奇心で男を堕落させて来たのだ。」と言った。
すると貴婦人は、「そんなことはございません。わたくしたち女も、随分と賢くなりましたもの」
「ほう、では一つ試してみるとしよう。わしは、今から丸一日この城を留守にする。その間、そなたは、この城のありとあらゆる所を見てもよい。ただし、あそ
こに逆さに伏せてある壷には触ってはならぬ。よいな」
「わかりました。約束いたしますわ」
貴婦人は、王様が出かけてしまうと、城中見て回った。しかし、どうにもあの壷のことが気になって仕方がない。貴婦人は、ちょっとだけ見るだけならば、平気
だろうと思い、壷をそおっと開けた見た。と、その途端、中からネズミが飛び出して、どこかへ逃げて行ってしまった。
王様は次の日帰って来ると、ネズミがいないのを見てこう言った。
「新しいイブの誕生を祝おう」
この話は、もしかすると、「パンドラの函」の話から来ているのかもしれませんが、パンドラの函については、うる星やつらにも出て来ますのでいずれそ
の時に・・・・。
ところで、今までの鬼婆とは、別の系統の話も残されているのでそれも見てみたと思います。
奥州安達ケ原、弘誓山、人肌薬師如来(ひとはだやくしにょらい)と子易観世音菩薩(こやすかんぜおんぼさつ)の由来は次のようなものである。
第十二代目の天皇である、景行天皇五十六年の時、皇子の御諸別王(みもろわけのおう)にこの地を治めさせた。
その子孫が、安達ケ原、今の弘誓山に城を建てた。その末裔の兄弟は、都の大友の乱に乗じて、鬼のように人々を苦しめたので、兄を婆羅門、弟を波羅仁と呼
んで恐れた。
兄弟は領土を巡って争い、数年が過ぎたが決着がつかず、兵士たちは疲れ弓矢尽きた。そこで兄弟は直接戦った。弟が兄を組みふして、その血を飲んだ。
それからというもの、弟は穀類は食べず、肉しか食べなくなり、姿も変わり、角が生え妖魔の通力を得、阿武隈川の岩穴に磐石を敷いて住居とした。
変身自在となり、ある時は須弥と同じくらいの大きさになり、眼は日や月のように輝いた。またある時は、老女の顔となり、またある時は、美しい女の姿となり
往来の人を取って食った。
安達ケ原は長く荒れ果て人跡は絶えた。ここに、第四十五代目の天皇の聖武天皇の御世、神亀(じ
んき)二年、丙寅(ひのえのとら)の秋に、紀州那智の東光坊阿闍梨祐慶が、諸国を回っていてこの地にやって来た。
里の者たちは、祐慶の噂を聞いて、例の悪魔を退治してくれと乞い願った。祐慶は、捨身求菩薩の念力を用いて、里の民と共にその岩の上に座して、不動明王
の法を行った。
するとにわかに、岩穴が震動し、笈の薬師如来は十二神将を率いて矛を振るい、観世音は三十三身を現し、弓を引き矢を放った。
「仏力神威、山を抜き石を砕かれ」と、唱えれば、悪鬼はたちまちに、亡び頭は宝剣に貫かれ、遺骸は塵となった。
この鬼に捕らえられていた半死半生の老若男女は、閻浮檀金(えんぶだごん)の薬師医王尊が、人肌になられて施しをすれば、たちどころに平
癒した。その後、人肌薬師医王仏と称して弘誓山に安置された。
観世音菩薩は、懐妊した人の胎児を取り上げたので、子易観世音と崇め、阿武隈川の岩屋に安置した。後に別当が境内に移した。すなわち、鬼の遺骸を埋めた
ところを黒塚と名づけて今に至る。
注:
神亀(じんき)二年 「相生集」では、神亀三年、観音寺の縁起にも、神亀三年となっている。
閻浮檀金(えんぶだごん) 閻浮樹の大森林を流れる河に産するという砂金。最も高貴な金とされる。
この他にも、「相生集」でもこれと同じ内容なのですが、この話では、兄弟喧嘩の末、弟が兄を食らい、鬼となるという話になっています。
話の内容的に、先の鬼婆の話よりも、こちらの方が原型に近いように思えます。
2003/11/19日
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