はじめに
20世紀末、1980年代までは、漫画やアニメーションは低俗な娯楽としてしか捉えられていなかったようで、「大人が漫画を読むのは恥
ずかしいこと
だ」とか、「外国人が日本に来て一番の驚くのは、大人が人前で漫画を読んでることだ」などと、批判されたりもした。
これは、カラオケの批判とよく似ている。「外国では、歌は皆で歌うもので、一人でマイクを握るなどというのは、恥ずかしいことだ」こんなことが、本気で語
られていた。
しかし、そんな文化人の批判などはお構いなしに、漫画やカラオケは市民権を得て今や大衆文化くらいの地位は得たようだ。皮肉なことに、これらの地位を押し
上げたのは、外国でカラオケや漫画が評価されたことによる。今ではニューヨークにはカラオケボックスが数多く作られ、漫画やアニメを見物するための日本ツ
アーさえあるそうだ。
この現象は「浮世絵」の認知のされ方に例えられることがよくある。日本では芸術とは捉えられていなかった浮世絵が、外国に渡り、印象派の画家たちに影響を
与えたことが知られるようになると、日本での浮世絵の評価が格段に上がり、今では、日本を代表する芸術と言われるようになっている。
すると今度は、「日本人は、外国で評価されなければ、そのよさが分からない」などと言い出す者が出てくる。まあ、それは一理あるのだが、しかしそれより
も、日本の大衆の目の確かさを誇るべきだろう。外国人が評価する前から、日本の大衆はそれらを大いに楽しみ、芸術などと仰ぎ見ることもなく、生活の一部と
していたのだから・・・・。
おそらくこれから20年後には、漫画やアニメーションは、メインカルチャーの地位を得ていることだろう。そして「うる星やつら」は、古典漫画としての評価
を確立しているに違いない。
うる星やつらの面白さは、縦横無尽に駆け回るドタバタにある。しかし、そのドタバタの芯には古典的な説話が仕込まれている。そしてその背景の深さが彩りを
添えている。だからギャグ漫画なのに、その面白さが色あせないのだ。
背景が表に出ると嫌味だが、その作品に背景がないければ、深みがない。このホームページでは、そういった背景や説話に光を当てて行きたいと思う。もちろん作
品のほんの一部にしか光を当てる技量がないことは重々承知しているが。
説話文学としてのうる星やつら
説話文学というものは衰退してしまい、現在ほとんど顧みられることはない。もちろん、今昔物語・デカメロン・千夜一夜物語・・・etc
などは、今後とも読み継がれ絶えることはないだろう。しかしそれらは、過去の遺産として一部の好事家に愛されるだけであって、これらに匹敵するような作品
が今後作られることはもはやないであろう。
というのが、大方の見方であり、僕もそのように考えていた。しかし、「うる星やつら」という漫画・アニメを見て、この考えが一変してしまった。
広辞苑によれば、説話文学とは、「神話・伝説・童話などの説話を素材とし、文学的な内容や形態をそなえたものの総称。・・・・」とある。
まさしくこれは、「うる星やつら」という一連の作品群にそのまま当てはまる。しかも、うる星やつらは、原作漫画366話、テレビアニメーション218話
と、その量においても、先の作品群にひけをとらない。
さらに、「うる星やつら」という作品は、20年以上も読み継がれており、いまだに、その人気は衰えていないのである。
20世紀の末、漫画という新しい枝が接木され、朽ちかけていた説話文学という古木に、新たな命が吹き込まれ、大輪の花を咲かせていたということを、後世の
人はどのように評価するだろうか。
著作物の引用について
「うる星やつら」の博物誌では、原作漫画、テレビアニメ、オリジナルビデオ、映画などの、画像を多数引用しています。これらは、作品を
考察する上
で、必要不可欠の引用です。これらの引用は、著作権法上認められているものです。このことは、「脱ゴーマニズム宣言」を巡る、小林よしのり氏と、上杉聰氏
の裁判の中でも確認されています。
脱ゴーマニズム宣言事件 漫画の引用と複製権の侵害の有無(東京高裁判決) については、
荒竹純一弁護士が運営されている Netlaw 東京高裁判決
でご確認下さい。(2005/03/16)
(2006/12/24リンク切れ修正)
著作権法については、社団法人
著作権情報セン
ター でご確認下さい。
HPを作るに当たって、用いた資料
・原作 高橋留美子 「うる星やつら<ワイド版>全15巻」 小学館
・フジテレビで放送された、テレビアニメ 219話
・オリジナルビデオ9話
・映画6作品
参考にさせて頂いたHP
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2003年8月28日 服部和正
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